スワー帝国(アルファベット表記:Swar)とは、菜ヶ野県洲環市に首都を置く国家である。スバル帝国と表記される場合もある。
248年 糸守豊賀(いともり ほうが)?がスワー帝国建国
スワー帝国の初代皇帝、糸守豊賀はもともと貿易商だった。彼が生まれた当時の菜ヶ野県にはいくつもの小さな国々が点在しており、中でも洲環湖周辺では3つの国が勢力争いをしていた。そんな世界で彼は菜ヶ野県洲環市の貿易商の家に生まれた。当時は3つの国それぞれに貿易商の集まりがあり、彼の家はその内の一つの貿易商の幹部にいた。
そのため彼の家は裕福だったが彼はそれに満足せず、洲環湖を中心とした巨大な国家を作るという野望を掲げ、盟友を集めて統一スワー軍を結成した。そして貿易によって得た財力で強大な軍事力を誇った糸守の軍隊は3国を平定し、248年遂にスワー帝国の建設に成功した。そして彼は洲環湖で戦い洲環湖に育てられた過去を生涯胸に留め、国旗にも洲環湖の形を描いた。
スワー帝国の初代皇帝、糸守豊賀はもともと貿易商だった。彼が生まれた当時の菜ヶ野県にはいくつもの小さな国々が点在しており、中でも洲環湖周辺では3つの国が勢力争いをしていた。そんな世界で彼は菜ヶ野県洲環市の貿易商の家に生まれた。当時は3つの国それぞれに貿易商の集まりがあり、彼の家はその内の一つの貿易商の幹部にいた。
そのため彼の家は裕福だったが彼はそれに満足せず、洲環湖を中心とした巨大な国家を作るという野望を掲げ、盟友を集めて統一スワー軍を結成した。そして貿易によって得た財力で強大な軍事力を誇った糸守の軍隊は3国を平定し、248年遂にスワー帝国の建設に成功した。そして彼は洲環湖で戦い洲環湖に育てられた過去を生涯胸に留め、国旗にも洲環湖の形を描いた。
399〜409年 ヤマネシア独立戦争? ヤマネシア王国?が属国として独立
当時八万七四県はトキオ連邦の支配下にあったが、399年ヤマネシア人が反乱を起こした。ヤマネシア独立戦争?である。独立を認めないトキオ連邦との間で戦争が始まったが、当時トキオ連邦と対立、さらに新たな貿易路の開拓を画策していたスワー帝国は、ヤマネシア人を支援することで八万七四県を自らの勢力圏に入れ込もうとした。
401年、戦いがある程度鎮静化したと判断した独立軍総帥の武田 精ノ進(たけだ しょうのしん)?はヤマネシア王国の独立を宣言し、自らが王位に就いた。しかし、トキオとの戦いが完全に終結したわけではなかった。それどころかトキオ軍はさらなる抗争をはじめ、403年トキオはヤマネシア王国首都の攻赴へ侵攻、ヤマネシア王都戦争?が勃発した。
それでも6年間の交戦、さらにその間にヤマネシア人の居住地が西部へ移動したこともあり、八万七四県の西半分をヤマネシア王国として独立させることに成功させた(増蕗条約)。
当時八万七四県はトキオ連邦の支配下にあったが、399年ヤマネシア人が反乱を起こした。ヤマネシア独立戦争?である。独立を認めないトキオ連邦との間で戦争が始まったが、当時トキオ連邦と対立、さらに新たな貿易路の開拓を画策していたスワー帝国は、ヤマネシア人を支援することで八万七四県を自らの勢力圏に入れ込もうとした。
401年、戦いがある程度鎮静化したと判断した独立軍総帥の武田 精ノ進(たけだ しょうのしん)?はヤマネシア王国の独立を宣言し、自らが王位に就いた。しかし、トキオとの戦いが完全に終結したわけではなかった。それどころかトキオ軍はさらなる抗争をはじめ、403年トキオはヤマネシア王国首都の攻赴へ侵攻、ヤマネシア王都戦争?が勃発した。
それでも6年間の交戦、さらにその間にヤマネシア人の居住地が西部へ移動したこともあり、八万七四県の西半分をヤマネシア王国として独立させることに成功させた(増蕗条約)。
425年 スワ―帝国が義父県南部の諸侯を融合(実質スワ―による半併合状態)、スワ―帝国の将軍木曽川 大辰(きそがわ だいしん)?を派遣しミノー連合?成立
450年 イセワニア連合?と合体、セントリスタン島で対関大同盟結成?
473〜476年 ミノー戦争? タジミア以外の大同盟領を割譲
479年 第一次他自身包囲? セキガハリアが義父県他自身市へ侵攻、包囲戦を展開するも熱波襲来により撤退
483年 第二次他自身包囲? セキガハリアが他自見市へ再度侵攻、包囲に成功
483〜490年 第一次基祖川戦争? 大同盟領をすべて割譲
493〜497年 第二次基祖川戦争? 基祖川上流域を割譲
497年 スワー・セキガハリア国境に犀木陸閘?建設
520〜522 ヒーディア独立戦争? 義父県北部がヒーディア王国?として独立
417年に突如成立したセキガハリア国?は急速に勢力を拡大し、周辺国を脅かした。スワー帝国はミノー連合を形成しセキガハリアに対抗したが、圧倒的な戦術と財力を持つセキガハリアに少しずつ侵食されていった。
他自身市への熱波襲来により一度は食い止められたものの、再度冬に侵攻したセキガハリア軍に突破され、その後二度の戦争を経てとうとう基祖川全流域をセキガハリアに割譲することになってしまった。
これ以上の進行を食い止めるべくスワー帝国は国境に犀木陸閘を建設した。しかし、これが大きな失敗となってしまった。
当時スワー帝国からセキガハリア国へ続くこの道は貿易路として活発に使われ、スワー帝国の重要な外貨獲得手段となっていた。しかしセキガハリア国の侵攻を完全に遮断するべくスワー帝国は商人も通れないような陸閘を作ってしまったため、スワー帝国の貴重な貿易路が失われてしまった。
さらにヒーディア独立戦争時にスワー帝国中心部からヒーディア地方へ続く街道が破壊され、西部への貿易路が完全になくなってしまった。
余談であるが、セキガハリア国の総統である深志 伊吹(ふかし いぶき)?は、かつてスワー帝国に滅ぼされたマツモティア王国?王家の末裔である。
450年 イセワニア連合?と合体、セントリスタン島で対関大同盟結成?
473〜476年 ミノー戦争? タジミア以外の大同盟領を割譲
479年 第一次他自身包囲? セキガハリアが義父県他自身市へ侵攻、包囲戦を展開するも熱波襲来により撤退
483年 第二次他自身包囲? セキガハリアが他自見市へ再度侵攻、包囲に成功
483〜490年 第一次基祖川戦争? 大同盟領をすべて割譲
493〜497年 第二次基祖川戦争? 基祖川上流域を割譲
497年 スワー・セキガハリア国境に犀木陸閘?建設
520〜522 ヒーディア独立戦争? 義父県北部がヒーディア王国?として独立
417年に突如成立したセキガハリア国?は急速に勢力を拡大し、周辺国を脅かした。スワー帝国はミノー連合を形成しセキガハリアに対抗したが、圧倒的な戦術と財力を持つセキガハリアに少しずつ侵食されていった。
他自身市への熱波襲来により一度は食い止められたものの、再度冬に侵攻したセキガハリア軍に突破され、その後二度の戦争を経てとうとう基祖川全流域をセキガハリアに割譲することになってしまった。
これ以上の進行を食い止めるべくスワー帝国は国境に犀木陸閘を建設した。しかし、これが大きな失敗となってしまった。
当時スワー帝国からセキガハリア国へ続くこの道は貿易路として活発に使われ、スワー帝国の重要な外貨獲得手段となっていた。しかしセキガハリア国の侵攻を完全に遮断するべくスワー帝国は商人も通れないような陸閘を作ってしまったため、スワー帝国の貴重な貿易路が失われてしまった。
さらにヒーディア独立戦争時にスワー帝国中心部からヒーディア地方へ続く街道が破壊され、西部への貿易路が完全になくなってしまった。
余談であるが、セキガハリア国の総統である深志 伊吹(ふかし いぶき)?は、かつてスワー帝国に滅ぼされたマツモティア王国?王家の末裔である。
(詳しくはウェディア帝国?またはゼンコー共和国?のページを参照)
537 ゼンコー教?の信徒が反乱、牛神 定(うしがみ さだむ)?を中心にウェディア帝国からの独立を宣言(ゼンコー革命戦争?)
539 スワー帝国がゼンコー教徒軍を支援、ウェディア領西部へ侵攻
540 ゼンコー教徒軍の反乱によりウェディア帝国中心部〜西部への補給経路が遮断、首都から孤立した領土西部をスワー帝国へ割譲(亜積乃協定?)
542 ウェディア帝国とゼンコー教徒軍が和議、ウェディアは宇枝以外の領土を全て割譲(竹間条約?)、ゼンコー教徒軍はウェディアから割譲された領土にゼンコー共和国を建国
当時スワー帝国の北西に存在したウェディア帝国は、かつて山岳軍?と呼ばれる山岳での活動に特化した軍隊を率いる、中央高原最大の国の一つだった。しかしこの軍隊は維持費が高く、さらに征服した土地は山ばかりで生産性が低かったこともあり、ウェディア帝国は段々と衰退していった。のちに山岳軍から通常の軍隊に切り替えたものの、通常の先頭に慣れていないうえに今まで征服した山間部の領土も失ってしまい、結果的に衰退を早める結果となってしまった。
そんなウェディア帝国内で生まれたゼンコー教は、未来を求めるウェディア人の支持を得ていった。
537年、ついにゼンコー教徒たちはウェディア帝国に反旗を翻した。ゼンコー革命戦争である。当初スワー帝国の高官は、帝政打倒の流れが自国にも及ぶのではないかとウェディア側を支援する声も大きかったが、ゼンコー今日の牛神教皇が自ら支援を求めたこともあり、ゼンコー教徒に協力することで関係性を取り持つ方向を選んだ。
540年、スワー帝国は差異川の封鎖を行った。ウェディア帝国西部の地域はウェディア帝国首都の宇枝市から離れており、山脈を経由する以外はスワー帝国の近くを流れる差異川を渡るしかなかった。山岳軍が存在した頃は山側の経路を容易に使えたが、当時はほとんど川を渡る方法しか使われていなかった。そんな川の途中をスワー帝国が封鎖したことで西部地域は他のウェディア帝国地域からほぼ完全に封鎖され、ウェディア帝国にとって領有する価値がなくなってしまった。
そして此れ幸いとスワー帝国は割譲案をウェディア帝国に差し出し、亜積乃協定によって西部地域の領有に成功した。
最終的に兵士の人数と式で勝るゼンコー教徒軍はウェディア政府軍に勝利し、ゼンコー共和国を成立させた。
537 ゼンコー教?の信徒が反乱、牛神 定(うしがみ さだむ)?を中心にウェディア帝国からの独立を宣言(ゼンコー革命戦争?)
539 スワー帝国がゼンコー教徒軍を支援、ウェディア領西部へ侵攻
540 ゼンコー教徒軍の反乱によりウェディア帝国中心部〜西部への補給経路が遮断、首都から孤立した領土西部をスワー帝国へ割譲(亜積乃協定?)
542 ウェディア帝国とゼンコー教徒軍が和議、ウェディアは宇枝以外の領土を全て割譲(竹間条約?)、ゼンコー教徒軍はウェディアから割譲された領土にゼンコー共和国を建国
当時スワー帝国の北西に存在したウェディア帝国は、かつて山岳軍?と呼ばれる山岳での活動に特化した軍隊を率いる、中央高原最大の国の一つだった。しかしこの軍隊は維持費が高く、さらに征服した土地は山ばかりで生産性が低かったこともあり、ウェディア帝国は段々と衰退していった。のちに山岳軍から通常の軍隊に切り替えたものの、通常の先頭に慣れていないうえに今まで征服した山間部の領土も失ってしまい、結果的に衰退を早める結果となってしまった。
そんなウェディア帝国内で生まれたゼンコー教は、未来を求めるウェディア人の支持を得ていった。
537年、ついにゼンコー教徒たちはウェディア帝国に反旗を翻した。ゼンコー革命戦争である。当初スワー帝国の高官は、帝政打倒の流れが自国にも及ぶのではないかとウェディア側を支援する声も大きかったが、ゼンコー今日の牛神教皇が自ら支援を求めたこともあり、ゼンコー教徒に協力することで関係性を取り持つ方向を選んだ。
540年、スワー帝国は差異川の封鎖を行った。ウェディア帝国西部の地域はウェディア帝国首都の宇枝市から離れており、山脈を経由する以外はスワー帝国の近くを流れる差異川を渡るしかなかった。山岳軍が存在した頃は山側の経路を容易に使えたが、当時はほとんど川を渡る方法しか使われていなかった。そんな川の途中をスワー帝国が封鎖したことで西部地域は他のウェディア帝国地域からほぼ完全に封鎖され、ウェディア帝国にとって領有する価値がなくなってしまった。
そして此れ幸いとスワー帝国は割譲案をウェディア帝国に差し出し、亜積乃協定によって西部地域の領有に成功した。
最終的に兵士の人数と式で勝るゼンコー教徒軍はウェディア政府軍に勝利し、ゼンコー共和国を成立させた。
557 ヤマネシアが増蕗市へ侵攻、ほぼ同時期にトキオが司豆丘市へ侵攻し不二川戦争?が開戦
561 ヤマネシアがトキオ中心部〜攻赴盆地の交通路を封鎖、トキオ軍がほぼ侵攻不可能になる
562 トキオ軍が不二川へ侵入、八万七四県南西部へ侵攻し不二川封鎖作戦?を展開
565 トキオとヤマネシアが和議、トキオ領の八万七四県中東部とヤマネシア領の司豆丘県中部・八万七四県南西端を交換(不二条約)
566 スワー帝国がヤマネシアへ侵攻、ヤマネシアが応戦し攻赴戦争?が開戦
567 スワーが攻赴を占領、ヤマネシア全領土を併合し終戦(ヤマネシア併合条約)
409年にトキオ連邦からの独立を果たしたヤマネシア王国だったが、まだ八万七四県東部は依然としてトキオ領のままだった(未回収のヤマネシア)。その地域をヤマネシア領にすべく、ヤマネシア王国がトキオ連邦へ侵攻した。不二川戦争である。
当初は地の利を生かしたヤマネシア王国側が優勢だったが、トキオ軍の不二川封鎖作戦によって事態は一変する。
当時ヤマネシア王国は司豆丘県中部にも領土を持っていたが、首都からは不二川(から引いた運河)を経由する必要があった。トキオ軍はその不二川を封鎖することで、農業地帯・貿易拠点となっていた司豆丘県のヤマネシア領からの補給を断ち切らせようとしたのである。
この作戦によってヤマネシアは戦力の維持が難しくなり、トキオとの講和を余儀なくされた。封鎖前に征服していた八万七四県中東部は獲得できたものの、失った司豆丘県の領土はそれに見合わないほど大きなものだった。
しかもこの不二川は当時スワー帝国にとって数少ない外洋へ通じる道だったため、司豆丘県うぃ手放したヤマネシアに激怒し、属国関係を破り侵攻を開始した。スワー帝国に多くの戦力を頼っていたヤマネシア軍はなす術もなく、スワー帝国はたった数か月でヤマネシア全土を征服し、その地を植民地同然のものにしてしまった。
561 ヤマネシアがトキオ中心部〜攻赴盆地の交通路を封鎖、トキオ軍がほぼ侵攻不可能になる
562 トキオ軍が不二川へ侵入、八万七四県南西部へ侵攻し不二川封鎖作戦?を展開
565 トキオとヤマネシアが和議、トキオ領の八万七四県中東部とヤマネシア領の司豆丘県中部・八万七四県南西端を交換(不二条約)
566 スワー帝国がヤマネシアへ侵攻、ヤマネシアが応戦し攻赴戦争?が開戦
567 スワーが攻赴を占領、ヤマネシア全領土を併合し終戦(ヤマネシア併合条約)
409年にトキオ連邦からの独立を果たしたヤマネシア王国だったが、まだ八万七四県東部は依然としてトキオ領のままだった(未回収のヤマネシア)。その地域をヤマネシア領にすべく、ヤマネシア王国がトキオ連邦へ侵攻した。不二川戦争である。
当初は地の利を生かしたヤマネシア王国側が優勢だったが、トキオ軍の不二川封鎖作戦によって事態は一変する。
当時ヤマネシア王国は司豆丘県中部にも領土を持っていたが、首都からは不二川(から引いた運河)を経由する必要があった。トキオ軍はその不二川を封鎖することで、農業地帯・貿易拠点となっていた司豆丘県のヤマネシア領からの補給を断ち切らせようとしたのである。
この作戦によってヤマネシアは戦力の維持が難しくなり、トキオとの講和を余儀なくされた。封鎖前に征服していた八万七四県中東部は獲得できたものの、失った司豆丘県の領土はそれに見合わないほど大きなものだった。
しかもこの不二川は当時スワー帝国にとって数少ない外洋へ通じる道だったため、司豆丘県うぃ手放したヤマネシアに激怒し、属国関係を破り侵攻を開始した。スワー帝国に多くの戦力を頼っていたヤマネシア軍はなす術もなく、スワー帝国はたった数か月でヤマネシア全土を征服し、その地を植民地同然のものにしてしまった。
646 スワー帝国が菜ヶ野県菜ヶ野市へ侵攻、ゼンコー共和国が応戦し諏善戦争開戦
(以下、670年までの一連の戦争をスワー最終戦争と呼ぶ)
648 スワー軍大将(帝都兵団団長)でゼンコー教徒の岡谷 湊(おかや みなと)が
スワー皇帝の糸守 建(いともり たける)を暗殺(帝都事変)、ゼンコーとの停戦を要請するも
前線指揮官(マツモティア兵団団長)の高瀬 綱仁(たかせ つなひと)が拒否し戦闘継続
649 マツモティア兵団の要請を受けたユザワ反乱軍の
中津 清(なかつ きよ)が菜ヶ野県へ侵攻、諏善戦争に参戦
651 マツモティア兵団とユザワ反乱軍が菜ヶ野市を占領、
ゼンコー共和国は過累座和に臨時首都を設置
〃 八万七四県攻襲市で武田 重平(たけだ しげひら)(武田 精ノ進の末裔)がヤマネシア第二王政の樹立を宣言(攻襲事変)、
堤 竜王(つつみ りゅうおう)率いるヤマネシア兵団と衝突し鎌梨川戦争開戦
652 テンリュー王国が菜ヶ野県南部へ侵攻、
飯島 高遠(いいじま たかとお)率いるイナー兵団と衝突し天伊戦争開戦
653 菜ヶ野市の領有をめぐってマツモティア兵団と
ユザワ反乱軍が衝突、カワナカ戦争開戦(ゼンコーは介入せず)
655 ヤマネシア第二王政が火威市を占領、
ヤマネシア兵団がヤマネシア第二王政の独立を承認し終戦
657 テンリュー王国が維奈市を占領、イナー兵団領を併合し終戦
658 ヤマネシア第二王政がゼンコー共和国と合体、
攻赴に首都を置きヤマネシア=ゼンコー王国成立(攻赴条約)
〃 ヤマネシア=ゼンコーがユザワ反乱軍と停戦合意、カワナカ戦争に参戦
661 テンリュー王国が尾萱市へ侵攻、帝都兵団が応戦し第一次古都戦争開戦
〃 寒波襲来により洲環湖面が凍結、スワー河川軍が侵攻不可能となり終戦
664 マツモティアとユザワが和議、ユザワは菜ヶ野県の領有権を撤回し
マツモティアによる領有を承認(菜ヶ野条約)、
同年ヤマネシア=ゼンコーと停戦合意したマツモティア兵団が飛燕連合に改称
666 テンリュー王国が尾萱市へ再度侵攻、第二次古都戦争開戦
667 ヤマネシア=ゼンコー王国が帝都兵団を支援、第二次古都戦争に参戦
〃 飛燕連合が停戦合意を破棄しヤマネシア=ゼンコー王国へ侵攻、諏善戦争が再開
668 飛燕とヤマネシア=ゼンコーが和議、飛燕は菜ヶ野県東部を獲得し終戦(過累座和条約)
670 テンリュー王国が帝都兵団領を占領、全土を獲得し終戦
(以下、670年までの一連の戦争をスワー最終戦争と呼ぶ)
648 スワー軍大将(帝都兵団団長)でゼンコー教徒の岡谷 湊(おかや みなと)が
スワー皇帝の糸守 建(いともり たける)を暗殺(帝都事変)、ゼンコーとの停戦を要請するも
前線指揮官(マツモティア兵団団長)の高瀬 綱仁(たかせ つなひと)が拒否し戦闘継続
649 マツモティア兵団の要請を受けたユザワ反乱軍の
中津 清(なかつ きよ)が菜ヶ野県へ侵攻、諏善戦争に参戦
651 マツモティア兵団とユザワ反乱軍が菜ヶ野市を占領、
ゼンコー共和国は過累座和に臨時首都を設置
〃 八万七四県攻襲市で武田 重平(たけだ しげひら)(武田 精ノ進の末裔)がヤマネシア第二王政の樹立を宣言(攻襲事変)、
堤 竜王(つつみ りゅうおう)率いるヤマネシア兵団と衝突し鎌梨川戦争開戦
652 テンリュー王国が菜ヶ野県南部へ侵攻、
飯島 高遠(いいじま たかとお)率いるイナー兵団と衝突し天伊戦争開戦
653 菜ヶ野市の領有をめぐってマツモティア兵団と
ユザワ反乱軍が衝突、カワナカ戦争開戦(ゼンコーは介入せず)
655 ヤマネシア第二王政が火威市を占領、
ヤマネシア兵団がヤマネシア第二王政の独立を承認し終戦
657 テンリュー王国が維奈市を占領、イナー兵団領を併合し終戦
658 ヤマネシア第二王政がゼンコー共和国と合体、
攻赴に首都を置きヤマネシア=ゼンコー王国成立(攻赴条約)
〃 ヤマネシア=ゼンコーがユザワ反乱軍と停戦合意、カワナカ戦争に参戦
661 テンリュー王国が尾萱市へ侵攻、帝都兵団が応戦し第一次古都戦争開戦
〃 寒波襲来により洲環湖面が凍結、スワー河川軍が侵攻不可能となり終戦
664 マツモティアとユザワが和議、ユザワは菜ヶ野県の領有権を撤回し
マツモティアによる領有を承認(菜ヶ野条約)、
同年ヤマネシア=ゼンコーと停戦合意したマツモティア兵団が飛燕連合に改称
666 テンリュー王国が尾萱市へ再度侵攻、第二次古都戦争開戦
667 ヤマネシア=ゼンコー王国が帝都兵団を支援、第二次古都戦争に参戦
〃 飛燕連合が停戦合意を破棄しヤマネシア=ゼンコー王国へ侵攻、諏善戦争が再開
668 飛燕とヤマネシア=ゼンコーが和議、飛燕は菜ヶ野県東部を獲得し終戦(過累座和条約)
670 テンリュー王国が帝都兵団領を占領、全土を獲得し終戦
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